2020年5月26日火曜日

隠れ蓑

木を隠すなら森の中


今,番組「テラスハウス」出演者の方が誹謗中傷を受けて,死亡に至ったのではないかということを受けて,高市総務大臣が「匿名で他人を誹謗中傷する行為は人として卑劣で許しがたい」と述べ,発信者の特定を容易にするための制度改正を「スピード感を持って行う」と主張しています。

確かに,匿名で誹謗中傷するのは卑劣です。やっぱり「感性」で書いた通り,3年A組の効果はアッと言う間になくなっている。

ただ,この制度改正の動きですが,「政府批判を犯罪にする法律」に仕立て上げようとしていると勘ぐることはできないでしょうか? 「政治と政治家は別。批判・中傷されてナンボ」「されたくなければ,まともな政治行動をしよう」くらいドーンと政治家として確約されておかないと,法律を情報統制に悪用されかねないのではないかと危惧しています。政治家も人ですけど,税金を払っている人に非難する権利を与えられない「人でなしの政治家」では困るわけです。

検察庁法改正案見送りのようなことが,スーパーシティ法案が「#超監視超管理社会を拒否します」の動きから起きるかもしれないことを予想して,別の監視・管理システムの糸口として「テラハ」を隠れ蓑に,「誹謗中傷者の特定を容易にする制度改正」をスピード感を持って行おうとしているのではないでしょうか?

考えすぎ?


5/27
翌日,「#木村花さんを政府の国民監視に利用するな」というハッシュタグが立ちましたね。
ちゃんとした制度改正ならいいんですけど。

「人間としてどうか」「うそつき」との面罵はOK? 匿名じゃなければOK?

2019年8月6日火曜日

関頭

賢者は歴史に学び,愚者は経験に学ぶ(オット―・フォン・ビスマルク)


関頭。「かんとう」と読む,なかなか普段使わない言葉ですが,ターニングポイントとかそういう意味です。要は運命の分かれ道ということです。

今年の夏の高校野球甲子園出場を果たした宮崎の高校は,7,8年前は部員はたったの5人だったそうです。監督さんは基礎を徹底して,徳を積んでいれば,打席に立った時に自信が生まれることを説いたそうです。

その一環として,「携帯電話禁止令」を出していて,監督曰く,「百害あって一利なし」なのだそうな。

僕はそこまでケータイがひどいものだとは思いませんが,半年前に書いたこと(感性)と合わせれば,匿名をいいことにそれをSNSに上げていいかどうかすら判断できない思考停止や思考劣化が起きなければ,非常に有用なツールだと思います。

HKTの裏アカでのツイートでも分かるように,スクリーンショットの存在を知っていれば,たとえ裏アカでも「自分で蒔いた種」は拡散します。

そこだけ切り取れば,「百害あって一利なし」なのかもしれませんが,結局は使い方次第でしょう。「何気ない」扱いである分,発言者の知性や人格が素のまま反映されやすいわけです。「地頭が出る」というところでしょうか。


ここで問題。今,ツイートによるトラブルで,迷惑をかけたことを相手にメールで詫びたところまでは同じAさんとBさんがいたとします。その後,次のような対応をとったAさんとBさんの今後の振る舞いはどのように推測されるでしょうか? また,どちらの人を教員にしたいでしょうか?

Aさん:当該ツイートを削除した。
Bさん:ツイートを非公開にした。

実のところ,この数日関わった2人の学生をモデルにしていますが,案件はほぼ同じなのにこの2人のとった行動は異なっていました。人事的な視点からは教員採用の合否を左右する情報でしょう。僕の知り合いも人事に関わっているので,こういう情報は将来「みそをつける」ことを防ぐ上で,喉から手が出るほど欲しいそうです。

***追記(20191010)
神戸市の小学校でいじめ教員が明るみになったが,まあ僕が言いたいことと結構ダブりますね。結局,自分が何をしているのか,善悪判断ができていない教員は増やすなということです。
***

フェルミ推定とまで言わなくても,科学的に考えれば分かることですが,ただでさえ,知り合いの知り合いを4ステップか5ステップ踏めばつながると言われるくらい,世間は狭いものです。要するに,誰もが誰かと誰かをつなぐハブ (HUB) になっているということです。そして,SNSはそのつながるまでのステップを少なくする機能を持っていることは想像に難くありません。そういうスモールワールド・ネットワークのことをちょっと考えれば自ずと分かるようなものだと思うのですが,「スマートフォン (SMART phone)」という言葉が皮肉にしか聞こえないような,スマートから程遠いユーザもいるようです。

地「頭」が「関」わる問題。まさに関頭。

2019年3月11日月曜日

感性

我々の時代は以前よりも多くの手段,多くの知識,多くの優れた技術を持ちながら,過去のあらゆる時代よりも不幸な時代として,その波間に漂うているのである。(オルテガ・イ・ガセット)


ドラマ「3年A組」終了。他のドラマも終了する時期ですが,このドラマはなかなか興味深かった。

別段解説の必要もないでしょうが,「匿名で自分を守りつつ,コメントをネットに垂れ流す思考停止あるいは配慮停止人間が横行してしまっている社会への問題提起」といった作品だと思います。

面白かった。

面白かったんだけど,同時に空しい作品でもあることは間違いないでしょう。菅田将暉さんが熱演した教員が主張していることは,学校教育で「ちゃんと考えよう」とどの先生も言っていることと何ら変わりません。「Let's think!」です。同じ。

「あんな先生,いたらよかった」

そういうふうに感想を持つ人もいるとは思いますが,あの先生があんな事件を起こさないと大事なことにすら気づけない愚鈍さも同時に描かれている。このドラマによって,自己を振り返り,行動が品よく変容するネットユーザが溢れかえるといいなあと思いますが,「事件で何かが変わるでもなく…」というエンディングと同じ状態を辿ることになるのでしょう。つまり,一時のfadで終わるでしょう。

同じ時期にNHKの「100分で名著」でオルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』が取り扱われていたことは何とも皮肉。

2017年4月6日木曜日

正論

[水虫なんて]虫でないものを虫というな(ある自閉症児)


すごく久しぶりの投稿。誰も見ていませんように…。

数年も前ですが,多分に漏れず「半沢直樹」を面白く拝見しておりました。
あれ,視聴者はどの人の視点で見ていたんでしょうか?

もちろん半沢直樹なんでしょうが,同じような正論で生活をしているのでしょうか?

僕はワリと正論を吐くタイプだと思っています。
以前,妻に「正論過ぎて怖い」と言われたことがあります。
(これまた人気の「相棒」の杉下右京のセリフが,以前僕が言っていたことと同じだったことを受け,妻が言った)

「できるもんならな!」と半沢が上司に言われるシーンが有りますが,僕はあのシーンを見た時に,院生時代に僕が「標準的な研究」を批判して,採るべきアプローチについてプレゼンした際,教員に「ドロ沼に入らんように」と言われたことを思い出します。

「ドロ沼に入らんように」

これ,文字通り,そう言われました。どんな語用論的知識を持ち出しても「応援しているぞ,頑張れ!」という解釈は生まれないでしょう。むしろ「できるもんならな!」の方が近いと推測します。

ある自閉症児の発言を引用しましたが,非常に合理的な意見だと思います。

「大人になる」とか「健常である」というのは,純粋な正論をひた隠しにするように学習することであるというのも,当たらずとも遠からずではないでしょうか?

健常という障害なのかもしれません。


さて,今日,以前「レポートを書くのに不適切なプロセス」を注意し,「ご教示頂き,ありがとうございます。今回の件で,大変不快な思いをさせてしまい,誠に申し訳ございませんでした。」という回答をした学部生と道ですれ違う「はず」でした。
僕は矯正視力はいいので,50メートルくらいならおおよそ人物を特定できるので,それが早い段階から分かるのですが,その学生は「そっちに何しに行くの?」という方向に曲がりました。

本当に「そっち」に用事があったのかもしれませんが,持っていたものがコンビニの小さい袋程度だったし,本当に「何にもない」。
ガツンと注意されたら,その後きちんとすればいいものを…と思うのですが,注意された側はバツが悪かったり,僕を嫌ったりということなんでしょうね(他の学生のレポートを見ていく中で判断したことなので,僕は正論を吐いただけだという自信はあります。最初は「悪気はない」という感じだったので,「何が悪かった」かいちいちを伝えなければならなかった)。

ただ,レポートでの不適切なプロセスなどは注意や減点で対応できるので,この学生が謝ってきた不快などは感じませんでしたが,むしろ(あくまでも可能性として)「あいさつを避けるために方向を変えた」ということであれば,そちらの方が不快になるとは考えないのですかね。

(あくまでも可能性として)小さな事象で済むことを大きくさせてしまった「遅刻の言い訳に通り魔をでっち上げた22歳男性」のニュースを彷彿とさせます。

(あくまでも可能性として)もしそうであれば,臨床家として不適切かな,と。

(あくまでも可能性として)そうでないことを願います。

2013年3月21日木曜日

彷徨

過ぎたるは猶及ばざるが如し(孔子)


大学生も就職活動の時期に入ると,「自分とは何か」という問いに直面させられるようで,いわゆる「自分探し」という状態になるようです。

「なるようです」という他人事のような書き方をしていますが,自分自身のことを考えると,この「自分探し」の状態は大学生の時ではなく,小学生の時の問題だったように記憶しています(そういうことをよく考えさせられる環境だったということにしておきます)。かといって,その時に明確な解を得たというわけでもなく,未だに正解が何なのか分かっていません。

そして,世の中の大人たちが,どのようにこの「自分探し」を解決して,大人とか社会という営みに参加しているのか知りません。

僕自身,今のところ納得している意見は,「自分探しを専門にせず,その意味を問わずに活動している方が最終的には自分探しの様相を呈する」ということです。

例えば,「自分って…」という問いに対して,「他者との比較」によって自分を位置づけようとする方向性があり得ます。小学生の時,僕はこれは解決策を生まないと直感しました。簡単に理由を言えば,第一に,劣っている点に気持ちが向きやすいこと,第二に他者との比較はエンドレスだということです。

他にも宗教とか,最近だとスピリチュアルとか,色々な方向性があるのでしょうが,自分探しに時間を費やすことが,他にできるはずのことの邪魔になっている可能性も考えた方がよいと思ったわけです。

今は(というか,自前の意見はほぼ小学生の時にできてしまったのですが),自分が死ぬ時にようやく「自分というのは,“色んなことをやってきた”そういう存在なんだ」ということを発見できるのだろうと思っています。

だから,死ぬ時に思う「色んなこと」の中は,出来る限り「自分探し」の割合が小さくなる方がよいと思うのです。

それでも「自分探し」をしてしまいがちな人は,「自分探し」ではなく「自分づくり」とでも名前を変えて生活してみるといいかもしれません。その過程でうまくいかなくてもいいんです。作り続けるんです。立ち止まってはいけません。いずれ自然の摂理で「止まる」のですから。その方がより実質的な「自分探し」になるんじゃないか,と。

2013年2月7日木曜日

品行

その人の行く末は顔に現れている。(岡野 宏)


心理学では性格について様々な考えがあるのだけども,僕は「性格は行動傾向」だとあっさりと思っています。その人が採っている行動を直接見ることができれば,そういう行動を採らせる「心」の存在が仮定されて,それが一般に性格と呼ばれているのだ,という安直な理解です。(もっと言うと,質問紙は行動傾向との対応は弱いと考えています。)

僕の捉え方は,例えば,東野圭吾の「探偵ガリレオ」の主人公 湯川が第1話「燃える」で見せた,犯人の性格の捉え方に似ています。犯人はレーザーをいろいろな箇所で反射させ,ターゲットに命中させるという犯行を実行するのですが,このレーザーを命中させる調整がかなり大変で,同じことを湯川は実験を繰り返して,その方法で被害者と同じ致命傷を与えることができるかを確認しようとします。はたから見れば,ただの科学バカのようにも思える行動ですが,この一連の実験から,この方法で殺人を行うことが可能であることと同時に,「執念深い」犯人像を描き出します。

まあ,こういう類の判断です。大した理屈はここにはありません。


人の性格を知るのに最も理想的なのは行動を見ることなのですが,つきっきりで観察するわけにもいかないので,行動を直接見ないで済む「代用品」が必要になってきます。

僕の場合,それは「顔」です。顔を見れば「おおよそこういう人じゃないかな?」という推測ができます。「できているつもり」というのが正確かもしれませんが,主観的には当たる確率の方がハズれる確率よりも高いと思います。(ハズれることがあるというのがミソ。質問紙は回答者が正直に答えてくれたらハズれることはないです。「自分の行動を客観視できて,それを正確に答えられたら」です。)

経験主義的な議論は嫌いですが,こういう考えは経験的に培ってきたものだと思います。顔でそれなりの性格にあたりをつけるんです。(こういうことは恐らく多くの人もしているのではないかと思います。例えば,道を尋ねる時,「コレモン」のように見える人には声をかけないですよね? 但し,美形とか可愛い顔が良い性格という関係はないです。) 予想した性格よりもよい行動が観察されたら「いいハズレ」と考えます。この逆で「悪いハズレ」もあります。


しかし,個人的な経験では,「言葉遣いの悪さ」と「権威主義的な性格」,「自分に甘い性格」はそれほどハズれたということはなかったと思います。つまり,ある種の顔立ちとこれらの行動傾向はかなりバラツキが小さいということです。顔も筋肉の集合体だから,使えば発達するし,使わなければ衰退します。目つきを一つ取っても,その時点までの行動履歴が反映されるはずです。

また,これも偏った認識かもしれないですが,「挨拶しない」というのも目つきに現れるように思います。これは恥ずかしがり屋のために「挨拶できない」というのとは違い,意図的に行われる行動なので,かなりネガティブな印象になります。そして,先に書いたように,顔から性格を推測するのは,その原理が分かっていなくても,多くの人が知らず知らずのうちに行っていることです。


で,結局何が言いたいのかというと,それが,今回の「名言」につながります。職業柄,僕よりも断然若い学生を見るわけですが,普段の品行が顔に反映されていること,つまり本人が自分の顔を理解していない,もっと言うと行動履歴(=性格)が反映されることを理解していないから,就職活動の際,特に面接で損をする可能性に気づいていない,ということです。面接ではその場の応対だけでなく顔が見られるし,面接官はまさに人柄を見ようとします。つまり,「その場で取り繕って,まじめに見せているだけ」かどうかを,顔と行動で判断される可能性も否定できません。

就職試験に必要な知識は短期間でも何とかなるかもしれませんが,顔は長期にわたる行動傾向を反映するので,面接間際でどうこうなるものではないということです。就職活動を始める方,あるいはまだ就職活動には早い大学1,2年生は普段からの「品行方正」を心がけるのがよいと思います。また,就職に失敗した方は,就職試験対策の見直しはもちろん「品行」の見直しもする価値はあるかもしれません。もちろん,採用人数のために,ギリギリのところで不採用だったのかもしれませんが,「ギリギリ」でなくなる対策としても「品行」を無視しない方が良いかと思います。

2013年1月30日水曜日

矛盾

しかし,機械で友達をつくるなんて,かわいそうだね。(ドラえもん)


命題Aと命題¬Aの両方が存在してしまうことを矛盾といいます。
経験主義的な主張(をする人)の中で,かなりの確率でお目にかかります。

ある子ども番組で,誰もが一度は考えたことがある問題を取り上げた歌がかかっていました。

「善は急げ」 vs. 「急がば回れ」

「一石二鳥」 vs. 「二兎追うものは一兎をも得ず」

「果報は寝て待て」 vs. 「蒔かぬ種は生えぬ」


歌の結論では,こういう矛盾に出会ったら「君次第」なんだそうな。まあそうでしょうな。


もちろん,矛盾は中国の故事に由来するものですが,それを思うたび,僕は石川五エ門の斬鉄剣を想起してしまいます。(ちなみに,初期のルパン三世では「五右ェ門」と「五エ門」の表記を行ったり来たりしていました。)

あの斬鉄剣,五エ門曰く「つまらぬもの」をよく切っていますが,コンニャクが切れないという設定なんですね。

斬鉄剣について,正確には矛盾ではないんですが,気になる点が2つ。

まず,石川五エ門は,斬鉄剣を振り回して,キンキン言わせながら,銃弾をかわしています。
あれ,銃弾を弾いているんでしょうか? 切っているんでしょうか?
理屈では弾いていないとマズイでしょう。

斬鉄剣は何の抵抗もなく切ってしまうのでしょうから,飛んでくる銃弾の速度を変えることはないでしょう。つまり,切ってしまうと,銃弾の勢いはそのままなので「哀れ五エ門」となってしまうはずです。

2つ目に気になるのは斬鉄剣を入れる鞘です。

「テヤーッ!」って斬りかかる時に鞘の口の所に刃が当たっているんじゃないかと心配です。でも鞘は無事のようなので,当たっていないんですね。それが五エ門の刀の抜き方のすごいところなのでしょうね。鞘に収める時も当たっていないんでしょう。

五エ門のテクニックで解決させるのもアリなんですが,僕は別の解決策を考えていて,それは「鞘の内側をコンニャクでコーティングする」というものです。もちろん定期メンテナンスの必要があります。