2012年11月2日金曜日

責任

大いなる力には大いなる責任が伴う。(ベン・パーカー)


11月1日のプロ野球日本シリーズ第5戦はハプニングがあったようですね。
放送を見ていなかったので後日ネットニュースで知りました。

その場面の詳細はコチラに委ねますが,「小芝居」と「誤審」に非難が起きているようです。


小芝居の方は賛否両論です。

「バントはどうしてもストライクゾーンに近づく構えになるので,よける動きとしてはあのようになっても仕方がない」
「サッカーで言うシミュレーションなのだから,スポーツマンシップに反する」

こればかりは判断不能です。でも,文句の出ないやり方はあった,できただろうと思います。


誤審の方は,ちょっとかばいようがないというか,擁護するところが見当たりません。

日ハムの栗山監督もさすがに抗議していましたが,主審の判定は揺らがなかったようです。
(実は読売の原監督の訴えでファウル→デッドボールと判定が一度揺らぎ,それが変わらなかったそうです。)

審判は「俺がルールだ」的であるべきだと思いますが,選手同様,いやそれ以上にフェアでないといけません。

「“俺がルールだ”を押し通して,“誤審”でプロ野球史に名を刻むか。それとも,ホームランかファウルかの難しい判定の際にしか適用しないビデオ判定を,同じく“俺がルールだ”を押し通すことによって,ホームラン判定以外の判定で初めて積極的に使うことによって,“判定のフェアさを見極めようとした審判”としてプロ野球史に名を刻むか」

栗山監督はこんなことは言わなかったでしょうが,もしこれを言ったら,当該の審判はどう動いただろうか,と空想してしまいます。

「ビデオ判定をしていれば,こんな騒動にならなかっただろうに。」という「愚かさに対する真っ当な解決策に至らないモドカシサ」はいつまで続くのかと思わざるを得ません。

ここまで書いておいて僕はプロ野球のファンでもなんでもありませんが,「力があるのにアンフェアな人」が大嫌いなのでした。

ちなみに,今回の名言は映画「スパイダーマン」の主人公の伯父のセリフです。

2012年9月12日水曜日

自明

しかし,ここでまず明らかにしておかなければならないが,あるものが科学でないからといって,それは下らないものだときまっていはしない。例えば,恋愛は科学ではない。だから,あるものが科学ではないといったところで,そこに何かあやまりがあるということにはならない。単に科学ではないというだけのことである。(リチャード・ファインマン)


今,訳あって「恋愛心理学」という領域の本を読んでいます。

僕も一般向けの本を執筆したことがあるので知っているのですが,この手の本は,研究者である著者の文章がそのまま掲載されるのではなく,一般向けでキャッチーな表現を目指す編集者によって文章がいじられる。見出しも,イラストも分かりやすさやインパクト優先で作られている。そういう意味では,文章の軽さを額面通り「研究者」に帰属するのは間違っています。

しかしながら,文章の軽さ以前に,専門用語が色々出てきたところで,内容が,少し考えれば常識的に分かってしまうものばかりです。


例えば,「長年連れ添った夫婦は相手のことが何でもわかる?」という問い。

まず「何でも」分かるわけない。この問いの設定がズルイ。
でも,AさんとBさん夫婦では,AさんはCさんよりもBさんのことを知っているはずです。結局,比較対象や「知っているはずと問われる内容」次第で「分かってる」ことを示したり「分かっていない」ことを示したりできます。
何年も連れ添っている夫婦の間に,ポッと現れた研究者に「あんまり互いに分かっていませんね」なんて言われたくないですよね。少なくともその研究者よりは知っているはずです。

もう一つ「別れの主導権を握るのは,(関係への)思い入れが強いほう?弱いほう?」という問い。
僕自身,こんな問いすら思いつくことはありませんでした。本文では「弱いほう」になっています。
「え゛ーっ!」という驚きは全く生じません。
それもそのはずで,「関係への思い入れが強い方が別れの主導権を握る」というのは,意味的におかしいからです。

結局,なぜこういうことが起きるかというと,アンケートして回答が多かったものが知見として論じられているからです。つまり,一般の人に普通に聞いて出てきた結果をまた一般の人に伝えるんですから,「そうだったの!」なんてことは起きようがないんです。

仮に少数派の人であっても,友人・知人には多数派もいるでしょうから,「普通はそうだろうな,でも自分は違う」ということを自覚することになるので,結局「そうだったの!」には至らないわけです。

つまり,常識内のことしか書かれていません。

全ての知見がこんな調子というわけではないのですが(「ほー」と思うものもあります),「ちょっと考えれば分かる常識の再確認」という域を超えないものが多い。(「分かりやすい」とか「初めてでもスラスラ読める」というのはそういう常識を超えていないことの証拠とも言えます。)


そもそも「恋愛行動をうまく営む知見」を学生に教えている当事者の恋愛はうまくいっているのだろうか? 自分ができていないことを学生に教授している可能性はゼロなのだろうか?

僕はある恋愛心理学的仮説を持っています(検証済みなのかどうかは知りません)。それは「恋愛心理学は,会話などの話題作りにはなるが,それを発する量と恋愛対象とされる可能性は反比例する」というものです。

2012年8月31日金曜日

開闢

どんな現象でもそれと同じ様相を呈する機械的模型を想像することができるまでは理解することができない。(ケルビン卿)


名前を呼ばれて,子どもが「はい!」と言うようになりました。
自我の萌芽なのかどうなのか?

それにちなんで,ということもないが,今日から始動することにしました。

つれづれなるままに…。