2013年3月21日木曜日

彷徨

過ぎたるは猶及ばざるが如し(孔子)


大学生も就職活動の時期に入ると,「自分とは何か」という問いに直面させられるようで,いわゆる「自分探し」という状態になるようです。

「なるようです」という他人事のような書き方をしていますが,自分自身のことを考えると,この「自分探し」の状態は大学生の時ではなく,小学生の時の問題だったように記憶しています(そういうことをよく考えさせられる環境だったということにしておきます)。かといって,その時に明確な解を得たというわけでもなく,未だに正解が何なのか分かっていません。

そして,世の中の大人たちが,どのようにこの「自分探し」を解決して,大人とか社会という営みに参加しているのか知りません。

僕自身,今のところ納得している意見は,「自分探しを専門にせず,その意味を問わずに活動している方が最終的には自分探しの様相を呈する」ということです。

例えば,「自分って…」という問いに対して,「他者との比較」によって自分を位置づけようとする方向性があり得ます。小学生の時,僕はこれは解決策を生まないと直感しました。簡単に理由を言えば,第一に,劣っている点に気持ちが向きやすいこと,第二に他者との比較はエンドレスだということです。

他にも宗教とか,最近だとスピリチュアルとか,色々な方向性があるのでしょうが,自分探しに時間を費やすことが,他にできるはずのことの邪魔になっている可能性も考えた方がよいと思ったわけです。

今は(というか,自前の意見はほぼ小学生の時にできてしまったのですが),自分が死ぬ時にようやく「自分というのは,“色んなことをやってきた”そういう存在なんだ」ということを発見できるのだろうと思っています。

だから,死ぬ時に思う「色んなこと」の中は,出来る限り「自分探し」の割合が小さくなる方がよいと思うのです。

それでも「自分探し」をしてしまいがちな人は,「自分探し」ではなく「自分づくり」とでも名前を変えて生活してみるといいかもしれません。その過程でうまくいかなくてもいいんです。作り続けるんです。立ち止まってはいけません。いずれ自然の摂理で「止まる」のですから。その方がより実質的な「自分探し」になるんじゃないか,と。