2012年9月12日水曜日

自明

しかし,ここでまず明らかにしておかなければならないが,あるものが科学でないからといって,それは下らないものだときまっていはしない。例えば,恋愛は科学ではない。だから,あるものが科学ではないといったところで,そこに何かあやまりがあるということにはならない。単に科学ではないというだけのことである。(リチャード・ファインマン)


今,訳あって「恋愛心理学」という領域の本を読んでいます。

僕も一般向けの本を執筆したことがあるので知っているのですが,この手の本は,研究者である著者の文章がそのまま掲載されるのではなく,一般向けでキャッチーな表現を目指す編集者によって文章がいじられる。見出しも,イラストも分かりやすさやインパクト優先で作られている。そういう意味では,文章の軽さを額面通り「研究者」に帰属するのは間違っています。

しかしながら,文章の軽さ以前に,専門用語が色々出てきたところで,内容が,少し考えれば常識的に分かってしまうものばかりです。


例えば,「長年連れ添った夫婦は相手のことが何でもわかる?」という問い。

まず「何でも」分かるわけない。この問いの設定がズルイ。
でも,AさんとBさん夫婦では,AさんはCさんよりもBさんのことを知っているはずです。結局,比較対象や「知っているはずと問われる内容」次第で「分かってる」ことを示したり「分かっていない」ことを示したりできます。
何年も連れ添っている夫婦の間に,ポッと現れた研究者に「あんまり互いに分かっていませんね」なんて言われたくないですよね。少なくともその研究者よりは知っているはずです。

もう一つ「別れの主導権を握るのは,(関係への)思い入れが強いほう?弱いほう?」という問い。
僕自身,こんな問いすら思いつくことはありませんでした。本文では「弱いほう」になっています。
「え゛ーっ!」という驚きは全く生じません。
それもそのはずで,「関係への思い入れが強い方が別れの主導権を握る」というのは,意味的におかしいからです。

結局,なぜこういうことが起きるかというと,アンケートして回答が多かったものが知見として論じられているからです。つまり,一般の人に普通に聞いて出てきた結果をまた一般の人に伝えるんですから,「そうだったの!」なんてことは起きようがないんです。

仮に少数派の人であっても,友人・知人には多数派もいるでしょうから,「普通はそうだろうな,でも自分は違う」ということを自覚することになるので,結局「そうだったの!」には至らないわけです。

つまり,常識内のことしか書かれていません。

全ての知見がこんな調子というわけではないのですが(「ほー」と思うものもあります),「ちょっと考えれば分かる常識の再確認」という域を超えないものが多い。(「分かりやすい」とか「初めてでもスラスラ読める」というのはそういう常識を超えていないことの証拠とも言えます。)


そもそも「恋愛行動をうまく営む知見」を学生に教えている当事者の恋愛はうまくいっているのだろうか? 自分ができていないことを学生に教授している可能性はゼロなのだろうか?

僕はある恋愛心理学的仮説を持っています(検証済みなのかどうかは知りません)。それは「恋愛心理学は,会話などの話題作りにはなるが,それを発する量と恋愛対象とされる可能性は反比例する」というものです。